テーマ41:虐待と今
- 2016.07.04
- Spirid(精神) 学力は全米トップ0.1%
- 親の在り方
※ こちらの記事では、旧ブログ『学力は全米トップ0.1%〜秘訣は幼児期の教育(2005年5月〜2007年3月)』の内容をそのまま公開しています。
考えるポイント
これは本当の話です。ですが、そのまんま書いてメルマガで配信した後に「そんな実話を人に見せるものじゃない」というようなメールを貰いました。それって何が良い経験で悪い経験か、ジャッジしているから出てくる意見だと思う。当事者の私にしたら、良いも悪いもどっちもひっくるめて今の自分を形成した過去の話というだけなんだから、ホットケーキ!
どっちにしても人が何と言おうと、自分が書きたいことを書きたいように書くのでヨロスク (^_-)V
こんにちは~♪
昨日ね、大分ドラマチックにおいおい泣いちゃったんですよ。息子がね、13歳の夏から反抗期に突入したのですが、時々ケンカしちゃうのね、私。そうなると、もう親だという威厳もなにもなくなっちゃうんです。
でも、うちは何しなさいかにしなさいって、うるさいわけじゃないからそれほど反抗する理由はないはずなんだけど、でも、息子は親から・・特に母親の私から自立するために、色々な手段を見つけては、なにかとつっかかってくるのです。本人も分かってやってる訳ではないと思います。
ところが問題なのは子どもというより母親の私・・・
昨日くだらないことがきっかけとなってケンカした後、子どもじゃなくて親の私が、テーブルにうっぷしておいおい泣いているうちにこの際、思いっきり発散させればスッキリするんじゃないかと思って、泣くのをガマンしないで、できるだけ劇的に涙を振り絞ってみたのですが、そしたら、なんだかこれは子どもの問題ではなく、私の問題だと思えてきたのです。
で、鼻をかんで涙を拭いて息子の横に座って、息子に自分の過去を話し始めました。
私ね、ただの一母親なんですよ。昨日はいい母親だったけど、今日はダメな母親だったって、毎日、どうしたら向上できるのか、反省しながら親をやっているのです。メルマガやブログで子育てについて書いてても、だからと言って決して完璧な非の打ちどころもないお手本ではないのよね。
今日はそのことを正直に書こうと思っています。
なぜなら、こうして書くことは自分の考えをシェアするツールとして人の役に立つ情報や思っていることを発信するためでもあるけど、私にとって、実は自分自身が成長するための修行にもなっているのです。今日はその事を改めてかみ締めながら、できるだけ裸の自分になろうと思います。
私は子どもにかなり厳しい親です。これまで一生懸命、子どもが将来一人でたくましく生きていかれる様、強い人間になるよう育ててきたと思っています。
例えば、うちでは息子が11歳になってからはお小遣いはあげず、彼にはどうやって自分で稼げるか教えました。
息子は買いたい物があると、知り合いのお家の庭仕事や犬の散歩や落ち葉をはいたりする仕事をして、お金を貯めて、そして私たちがほんの一部だけ
足りない分をサポートして、これまで何でも買ってきました。うちは夫ではなく特に私が厳しのです。
でも口うるさい厳しさではなく、目の前で転んでる息子に敢えて手をかさず、自分で考え何かをつかんで起き上がることを教え込むという厳しさです。でもそれは自分の中にある不安からきてたのかもしれないと昨日、息子に自分の過去を話しながら気付いたのです。
ここからかなり暗い話に入ります。
私の両親は私が11歳の時に離婚しました。その後ほんのしばらくの間、母と住んでいたのですが、学校帰りに妹と一緒に、実の父親に車でさらわれて以来
母とはしばらくの間生き別れになってしまいました。父のところには既に継母がいました。
私たちは母の元で普通の子どもの生活をしていたところから、憎しみを持たれていたとしか思えない継母の下で苛められそして、父に毎日暴力をふるわれる生活となったのです。
私はひどい時は学校を何日も休まなくてはいけないほど理不尽なことを理由に顔が腫れるまで殴られました。幸い妹は小さかったので、彼女はそれを隠れて見ているだけで、彼女が暴力をふるわれることはありませんでした。
殴られる時は、平手が最も屈辱的でした。棒の方が痛かったけど、平手で殴られる胸をえぐられるような屈辱感はありませんでした。最も屈辱を感じたのは、彼らに子どもができてから、私と妹は弟たちに触ることを継母から禁じられたことです。
「あんた達はばい菌だから、触っちゃダメよ」って言われ、汚いばい菌と呼ばれ、私たちは冷蔵庫も別にされていました。
それまで優しい母の元で元気に活発に生活していた普通の子どもだったのが、夕飯の支度をするために、でも恥ずかしくてお友達に理由を言えず「家がうるさいから」と言って、人に悟られないようにして肉屋さんや八百屋さんに寄って家に帰っていました。
だけど、ご飯なんて作ったことなかったでしょ。だから目玉焼きかいり卵かゆで卵ばかり食べてました。なので今でも卵が好きです。
中学に入ってからは陸上部に入ったのですが、練習して帰ると「この子は不良だから遅く帰ってくる」と継母が父に言い、私は「一体何をやってるんだ」と殴られました。
クラブ活動だと言っても「ウソつくなこのやろう」と言われ、「嘘つきやろう」と言って殴られました。でも、私は絶対に悪いことはしてないと思ってたので、口答えはできませんでしたが、いつも黙って父の目を見ていました。そうして屈しなかったため余計に殴られました。
一度お友達のところに家出して、と言っても彼女のお母さんに家に帰されたのですが、帰ったら玄関先で継母に「あんた外で何してるか分からないから、産婦人科に行って見てもらいな」と投げ捨てるように言われました。
私は始め、なぜ彼女が産婦人科に行けと言っているのが理解できませんでした。そして、生理さえどんなことなのか、教えてくれる人がいなくて知らなかったのに「アンタはさかりのついたメス犬と同じだ」と、継母につばを吐くように言われ、やっと彼女が何を言っているのか分かった私は、大人の汚さに心を傷つけられ、玄関で泣き崩れてしまいました。
愛情に包まれてスクスクと活発に太陽の下を何の不安もなく走り回っていた小さい頃に本当に戻りたかった。
世の中はこんなに汚いはずじゃなかった。周りはみんな優しい人ばかりだったはず。こんなはずじゃない。
私は本の中に入り込みました。
でも父に本なんか読んで難しい言葉を覚えて「権利だとか義務だとか言うようになる」と言われ、女は頭なんか良くならなくていいと、本をむしりとられました。お母さんに会いたかった。
中学2年の時、私は父に殺されるという恐怖から家出をしました。日ごろからバスケットに家出用品を入れて、隙を見つけたらいつでも家出できるように計画してたのです。私は2階の部屋からバスケットを外に投げて、玄関から外に出ました。そこでバッタリ継母に出会いました。
でも継母には何とか言ってごまかして、彼女が家に入ったところを見計らいダッシュしてバスケットを取って、走って大通りに出てタクシーを拾いました。
お金は持ってなかったのですが、タクシーの運転手さんにうろ覚えに覚えている祖母の家の近所の様子を伝え、何とか祖母の家にたどり着くことができました。祖母は私が生まれた板橋の日大病院の近くに住んでいました。もし日大病院のような大きな目印がなかったら、私はもしかしたら母に二度と会えてなかったかもしれません。
母に会えば全ての悪夢が終わると思っていました。でもその時は母は既に再婚していて、彼らには赤ちゃんがいました。それで最初継父から、引き取れないから帰るように言われたのです。しかし私は、帰ったら殺されるのでここに置いてくださいと言って、土下座して頼みました。子どもながらにこれも大きな屈辱でした。
私はその夜、母に自殺をしようとして切った手首を見せ、継父に引き取ってくれるよう頼んでくれと懇願し、次の日母が継父を説得してくれました。妹はその後すぐに私が二人を説得して、私と一緒に養女にしてもらうことになりました。
父と継母は私たちを引き渡すことに、何の問題もなく手続きしてくれました。あの人たちの元に戻らなくもいいという安心感と、捨てられた焦燥感の両方で
とても複雑な心境だったのを今でもハッキリと覚えています。
その頃から私は、人に弱みを見せず表面的には明るく、心の底では自分にはもう家族はいない、早く大人になって一人で生きるしかない、人間は一人で強く生きていくしかないと思っていました。
その後も色々あって、私はかなり若い頃から自活していました。そして学費を貯めて、全部一人で手配してアメリカに来ました。誰にも相談しませんでした。でも私にはよその国で一人で生きていく怖さは全くありませんでした。それよりもアメリカに来てからは、全てのしがらみから開放され小さい子どもの頃に感じていた、何でも可能だという思える自由な心がやっとまた自分自身の手に戻ってきたと思えたのです。
そしてダディ~と知り合い、11歳の時から失っていた家庭をやっと築けました。
私が子どもに厳しいというのには、このような背景があったのです。だから、子どもには厳しい社会や大人の中で自分の芯をくずさず、純粋さを保ちながら、本当に強く生きていって欲しいと、普通の親よりも強く期待していたに違いありません。
でも、息子は私じゃないんですよね。私のやり方が間違っていたのか正しかったのか、本当に分からないんです。
こんなんでメルマガやブログで子育てを語っちゃっていいのかとも思って、続けるべきか辞めるべきか、本当にどうしようか迷いました。でも夫が言っていた言葉に励まされ、今これを書いています。
彼はこう言っていました。「キミだってボクだって誰だって、自分が親として正しいかどうかなんて誰も分からないんだよ。でも親だということを放棄できない。だから何か問題にぶつかった時に、前向きに学ぶことを諦めちゃダメだよ。一緒に考えていこうよ。そして家族みんなが幸せになる努力をしようよ」
ちなみに息子は私の過去の話を聞いて、マミ~がなぜこれまで厳しかったのか本当に理解してくれたようです。そして「これまでと同じようにボクに色々教えてもらいたい」と言われました。私、これからも親として人間として葛藤を続けていきます。
もし壁にぶつかっているお母さんがいたら大丈夫、安心して。ここにもこんなのがいるからさ、あなただけじゃないよ。
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