インタビュー記事が掲載されます:「子育てのための人間学」 致知別冊『母』
- 2019.05.10
- お知らせ
冒頭でもっと気の利いた言い方をしたかったのですが、パンパカパーンという言葉しか浮かんできませんでした。
致知出版社さんの雑誌は叔父の治療院に置いてあって、すごく若い頃から、隅から隅まで読みたい雑誌の一つでした。その雑誌の方々に前回日本に行った時に取材されました。
小さい欄にちょっと載るだけ、と聞いていたように記憶してますが、6ページになっているそうです。息子の隠れ話をあれこれ喋っちゃったので、これを息子に見られたらちょっとまずい。
それにしても、神様はなんと皮肉なことか。ただ今、私は母と葛藤しております。脳梗塞で一人で歩けなくなり、お風呂も自分で入れない母。でも頭は以前の70%くらいの理解度なのかなあ。漢字など私よりよく知ってます。
葛藤というのは、そうした状態の母と過ごすことで見えてくる、自分自身のインナーチャイルドとの戦いです。母はものすごく我儘な人。今、私は本の執筆もしていますが、常に構ってあげてないと何とか自分の方に気を引こうとして、わざと危ないことをしたり、捨て台詞したり、さまざまな手を使ってきます。すると私の中からこれまで封印していた過去が、自分自身を苦しめるように出てきました。
このプロセスでは最初は、自分が我慢をすれば周りの人がみな上手くいくというやり方でした。ところが、何かを始めると5分とたたないうちに、(早くやめて、早くやめて、早くやめて)光線を送ってくる母に、私さえ我慢すれば万事上手くいくという、これまで使ってきた生きる術は役に立たないことが明確になりました。
その次に出てきたのが、蛾が強くて人に罪悪感を持たせることを、無意識に巧妙にやっている母に対する怒り。身体が悪い年寄りに怒りをそうそう出せないので、感情を内に貯めると不眠。不眠になると怒りという循環。同時に母のリハビリを通じて、母にスピリチュアルワークもしている自分。割り切って考えられない性質なので、どうしたって全力を尽くさずにはいられない。ヘロヘロになっても。
でも昨日、この囚われが半世紀近い以前に起こったことが原因だと分かり、自分の心の洗浄をしました。神さまは皮肉であり同時に容赦ない。ずっと蓋をしておきたかったのに、そうはさせてくれませんでした。
自分を犠牲にして他者を幸せにしてあげたいという、奥底に隠れていた気持ちを手放す準備ができたと、一昨日サニーを手放しました。でも実は幸せにしてあげたかったのは、私の心の奥に隠れていた子どもの自分だった。サニーを手放すことでそれを払拭することができたと思っていました。
これで一件落着。ところがそのことは単に序章であったようです。氷山の下に眠っていたのはその昔、自分が我慢して母の幸せを壊さないようにしてきた、今でも続いていた同じパターン。でも、もう表面だけ繕うことはできなくなっていました。そして、昨日それを脱却しました。勇気を出したのは私だけではなく、母も勇気を持って受けとめてくれたと思います。
直後に致知さんから下記の案内が来ました。昨日までは心の中に、(こんな私でいいんですか?)という気持ちがありました。でも、今は本当に両手放しで心から、自分を卑下する気持ちもなく、このことを案内できます。
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